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池田城の誕生

池田城跡公園 池田城
池田城跡公園のサイトを始めようと思いたって、園内の掲示物をはじめとする資料を調べるうちに、池田城の歴史的な位置づけというものがおぼろげながら分かってきました。ここでその成果を披露させていただきますので、池田城跡公園を訪れる前の予備知識として活用していただければと思います。

池田氏は南北朝時代の頃から急速に勢力を伸ばしはじめ、1300年代の半ばあたりにはすでに勝尾寺の檀家になっています。とはいえ、勝尾寺の檀家衆の土豪30数人の中の一人に挙げられていることから、特に卓抜した存在であったとはいえないことが分かります。

なお、池田氏は摂津国守護赤松氏の家来にもなっていたことが判明しています。

この後、いったいどのような過程を経て池田氏が成長していったのかは、明らかになっていません。しかし、80数年の間に、勝尾寺の檀家衆の土豪が30数人から10人程度にまで淘汰され、その中に池田氏が残存していることは、『勝尾寺文書』に記録として残されています。

おそらくこの頃には、池田氏の支配領地が拡大し、池田氏はいわゆる「国人」として成長しており、その支配拠点を構えるに至っていたものと推測されています。これは言い換えれば、1400年代の前半くらいには、現在の池田城跡に館を保有していたのではないかと考えられるということです。

1467年に勃発した応仁の乱の際には、室町幕府の有力者である摂津国守護細川氏の家来になっていることや、1469年の史料に「池田城」の名称が登場していることなどから、このように考えられています。

正直言って、この時代の歴史に関しては、「人の世むなしい」でおなじみの「応仁の乱」という言葉が登場してきて、ようやくこれなら分かるとホッとしたくらいの知識しか持っていませんでした。しかし、改めて読み返してみて思うに、なんとも興味深い時代のようですね。この週末は、この時代の歴史小説など手にとってみようか、少しそんな気分になってきました。
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